死んだ者のために泣くな。
エレミヤ書22.10
彼のために嘆くな。
去って行く者のために大いに泣け。
彼は二度と帰らず
自分の生まれ故郷を見ることがないからだ。
一昔前の詰め込み型の知識暗記型教育は今でも主流の評価方式だが、インターネットやAIの発展でどんな事でも調べれば事実に関しては簡単に答えが得られるようになったので、思考力や表現力の方を重点的に評価する新しい学習スタイルが求められていると言える。
同時に、そもそも勉強し続ける意味があるのかどうかという話もある。というのも、自分の到達したい境地が明確にイメージできていてその内容を具体的な問いに落とし込む事が可能であれば、その問題に対し解答を提供する事ができる専門家が何処かにはいるからだ。
具体的には、資本主義社会なので無尽蔵の資源があればどんな課題でも解決可能なわけだが、注文者の教養の程度が豊かであればあるほど最短距離で解答を実現できるので必要な資源は少なくなる。言い換えれば資源と教養の掛け算だが、資源の比重が圧倒的に大きい。
これまで再三に渡ってくどいくらいには学歴社会の現実を強調してきたわけだが、確かに現実問題として「強さ」は学歴で決まるといっても過言ではないが「優しさ」も同時に求められるのだし、力があるからといって好き勝手行っても本人も社会も誰も得る物がない。
正直なところ、解くべき問題が分かっていて解決できない時は、能力的な側面だけでなく政治的な要素が必ず絡んでくる。優秀な人材は沢山いるが誰も空気を読まない形で暴走したりしないのはきちんと政治的配慮が隅々にまで行き届いているからで、能力は関係無い。
従って私的には、表題にもあるように自分がどうしたいのか分からない時やどうなりたいのか分からない時に勉強をするべきであって、それ以外の局面ではコミュ力や政治手腕などの非認知的技能を活用し物事の解決に取り組む方が伸び代が大きいという結論になった。