宇宙論(うちゅうろん、英: cosmology)とは、「宇宙」や「世界」などと呼ばれる人間をとりかこむ何らかの広がり全体、広義には、それの中における人間の位置、に関する言及、論、研究などのことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96
宇宙論には神話、宗教、哲学、神学、科学(天文学、天体物理学)などが関係している。
「Cosmology コスモロジー」という言葉が初めて使われたのはクリスティアン・ヴォルフの 『Cosmologia Generalis』(1731)においてであるとされている。
本項では、神話、宗教、哲学、神学などで扱われた宇宙論も幅広く含めて扱う。
宇宙論と聞けば、今は完全に理系の学問で最高難度の物理学の最先端であり、純粋に数学的な方法で研究される分野であると考えている人が多いだろう。
私は受験生時代に京都大学の理学部を受けて木っ端微塵に粉砕されたので理学系の研究は諦めたのだけれど、消費者の立場として興味は持ち続けていた。
因みに、滑り止めだった大阪大学の工学部には受かった。結局速攻で辞めてしまったのであんまり記憶は無いけれど、少林寺の体験入部が衝撃的だった。
何となく関心を保ち続けてとりとめのない空想を行っている内に、自分が本当に関心があるのは理系的な宇宙ではなく文系的な宇宙である事に気付いた。
かつての宇宙論には「世界の解釈」という意味があり、上記の引用にもあるように宗教・哲学・神学などの領分であって、理数系は全然関係が無かった。
私はペンネームを聖杯としているのだけれど、聖杯の一般的なイメージは、自然科学を極めて文字通り何もかも叶えてしまう理系的な魔法の道具だろう。
私の場合は「世界の解釈」を洗練させる事で現実を全く変える事無く、誰が見ても公平で平等な意味付けを発見する事を目指す文系的な抽象概念となる。
現実に起こる出来事について自分なりに腑に落ちる意味を見出したいという動機で、現実を自分の思い通りに作り変えるという発想には関心が無かった。
神話では聖杯は1つしか存在しないからそういった事は起こらないのだけれど、自然科学で聖杯を実現しようとしたら万人に行き渡る事になってしまう。
理系的な聖杯は各個人の願望を叶える事を目的とする為、仮に発見なり実現なりしたとしても、互いの利害が衝突して争いしか起こらず最終的に滅びる。
自分に与えられた現実を受容する為の観念としての聖杯であれば、科学的に普及しても何の問題も起こらず、平和で秩序ある世界を維持する事が出来る。
自然科学の研究対象としての宇宙には手が届かなかったけれど、人文社会科学としては一定の境地に辿り着けたので、これからも研究を続けていきたい。