私はどのようにしてここにいるのか。

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では、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証印として、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

ローマの信徒への手紙4.9ー11

大まかに分けて、基督教は信仰重視で、猶太教は実践重視のスタイルだと言える。この手紙では、律法主義の猶太人が槍玉に上げられている。こうした考え方の違いは、聖職者でない猶太人も決められた慣習や儀式を生真面目にこなす点に反映されている。

だが、実践重視の傾向は生活の宗教的な側面だけに留まるわけではない。自分の目で直接確認したわけではないが、猶太人にとって(旧約)聖書の言葉は、強制力のある命令としての意味を持っており、普遍的なものとローカルなものがあると考えている。

私が今研究しているメシアニック・ジュダイズムは、猶太教の実践重視の姿勢は維持しながら、利用可能なテクストを新約も含めた聖書全体に拡張しようとする試みの一つで、旧約の方も正統な猶太教とは意味が違う事が多いので、まさに新境地と言える。

スピリチュアルな話題に還元するならば、引き寄せの法則と呼ばれるものがある。この法則は宗教の世界では信仰レベルでも成立するものの、科学的には確認出来ないので存在しないが、実践レベルの宗派からすれば聖書の言葉に対応するのは当然である。

一方で、信仰を重んじる基督教徒にとって、ただ時間と金銭が失われるだけで何も御利益が感じられないのでは信仰心が続かないので、仕方無くどこかの猶太教の派閥と組むか、マフィア(ヤクザ)のような反社会的勢力と組んで案山子を立てる事がある。

この辺は難しい問題で、確かに信仰はその人を目に見える形で救ってくれているのだが、それを実感する事が難しいので有能な人材に限って途中で辞めてしまう上に、あまりにも原理的に御言葉に拘ると、民度も下がるし試行錯誤する能力も失ってしまう。

それ以前の話として、宗教で何でも解決出来る事が明らかになってしまったら、科学を捨ててしまう人も少なからず出てくる。正直、科学より宗教の方が遥かに充実しているし結果も保証されているわけで、隠れ蓑としての機能が落ちれば動きにくくなる。

↓【おすだけで めざめるあなたの エデンパワー】(笑)
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