スピリチュアリティの用法
宗教学者・生命倫理学者の安藤泰至によれば、「スピリチュアリティ」という語を用いる人々は大きく三つに分けることができる[6]。
1.医療・福祉・教育・心理療法など広義のヒューマンケアに関わる人々で、スピリチュアリティの実践的重要性を重視する人々
2.従来の宗教概念では捉えきれない現代社会の現象をスピリチュアリティという理論的分析概念で読み解く宗教学者
3.従来の宗教に替わるような新しい自己=霊性探究の運動における一種のスローガンとして用いるニューエイジや新霊性運動の主唱者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3
スピリチュアリティと一口に言っても、人によって全く別の意味合いを持つ事が多いようだ。私が見る限りでは、土着の民俗文化や民族宗教に色を付ける形で霊性を掲げている人が多数派を占めているようだ。3の定義に見られるような、既存宗教と全く切り離された形で純粋な新霊性運動と呼ばれる代物にどっぷり浸かっている人はそんなに多くないようだ。
2の定義を見ると、社会現象一般が従来の宗教概念で捉えられる事が前提になっているように感じられる。聖書などの内容は古き良き神話の集まりなので、最先端の科学が日常を支配する現代社会の出来事に当てはめて考えるのは、類比的に行う事すら難しくなっているのかもしれない。というより、日本には元々宗教を基準として物事を考える習慣は無いが。
新境地の御利益を得る手段を前面的に打ち出している人も居る。そういった人達の多くは、医学や心理学の学説にルーツを持つ治療法を参考にしている場合が多いように見受けられる。特に、伝統的でない宗教と結び付いているスピリチュアリティや完全に新しい運動として展開している物ほど、心理学を希釈した内容のようになっているように見受けられる。
スピリチュアリティと宗教
スピリチュアリティに対してそれぞれが関心に従って機能的な定義を与え、あいまいな部分を切り落とそうと試みるが、各分野における用法は独立したものではなく、相互に影響を与え合っており、それ故に曖昧さが残り続けると述べている[6]。最も根本的なものとして、宗教との関係のあいまいさが挙げられる。両者の関係として、安藤泰至は次の4つをあげている。
1.「スピリチュアリティ」を「宗教」を含んだ広い概念としてとらえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3
2.重なる部分はあるが、とりあえず区別できるとする。
3.「宗教」のひとつの本質的な要素として「スピリチュアリティ」をとらえる。
4.ふたつは別のものとする。
上記の引用で挙げられているような用法の違いがあるらしい。スピリチュアリティの実践方法で、特に新霊性運動に近い内容になってくると、占いだとか予言だとかのオカルティックなものや、チャネリングと呼ばれる死者と交信する方法が、「宇宙的存在」と呼ばれる至高の絶対的実在と繋がる為に重視される。率直に言って、キリスト教などの伝統西洋宗教から見ると、こうした方法論は異端である。
私自身は、宗教のひとつの本質的な要素としてスピリチュアリティを捉える見方に賛成している。また極論だと思われてしまうかもしれないが、西洋の伝統宗教から見ると、スピリチュアリティの実践は、人間なら誰しも持っている心の影の部分、悪魔的側面をそのまま表に顕在化させてしまった結果であると考えている。本来は、心の内に秘めておくべき内容であるので、本質の一つという見方になる。
スピリチュアリティと利他
以前から考えていたが追求していなかった内容として、利他主義がある。多くの宗教では利他主義が積極的に奨励されており、種全体として生き残る為に利他的な行動を取る習性を持つ種の方が生き残りに有利であったのだろうとする学説も多く提出されている。だが、いかなる時も無私の奉仕を心掛けるのは現実的でないだけでなく時には有害で、どのような場面で利他的に振舞えば良いのか謎が残る。
私はインテグラル理論について研究しているんだが、意識発達段階の理論は呪術・利己・神話・合理・相対・統合と続いており、統合の部分が新境地となっている。気付いたのは、恐らくこの後に利他・仙術が続いて完結するんだろうと。先行する6段階の方法論が全て通用しなかった時にのみ利他的に振舞うべきという結論が導き出される事になるが、心理学的には殆ど利他的になる機会はないらしい。
結論
スピリチュアリティの分野に足を踏み入れるのは、根が善人過ぎる人が多い気がする。一種の社会現象とまでなっている事を考えると、伝統宗教の教化過程は欠けている部分があるのだろう。更に、利他的に振舞う為に必要な発達の条件を考慮すると、単なるファッションではない科学的な善意を体現する事はとても難しく、ごく一部の宗教家が到達しうる境地である事も頷ける。