自制心を高める方法〜体感覚を意識し情動を制圧する〜

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主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。その木から何かを作るために木材を取り出せるだろうか。あるいは、何かものをかける木釘を作れるだろうか。それは薪として火に投げ入れられ、火はその両端を焼き尽くす。真ん中まで焦がされては、何の役に立つだろうか。それが完全なときでも何も作れないのに、まして火に焼かれ、焦がされたなら、一体何の役に立つだろうか。それゆえ、主なる神はこう言われる。私が薪として火に投げ入れた、森のぶどうの木と同じように、私はエルサレムの住民を投げ入れる。私は彼らに顔を向ける。彼らが火から逃れ出ても、火は彼らを焼き尽くす。こうして、私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。私はこの地を荒廃させる。彼らが背信の罪を犯したからだ――主なる神の仰せ。」

エゼキエル書15.1−8

最近の研究によると、人間が何らかの情動を感じる時、その情動は体感覚と結び付いている事が分かっている。例えば、怒り心頭に発するという言葉からは、怒りの感情が頭部の体感覚や胸部の体感覚と結び付きうる事を示唆している。

私の例で言えば、冬になると寒くて体が冷えるので起床した直後は悲観的な気分に落ち込んでいる事が多い。普段なら何も感じないような事でもこの世の終わりのようで何もかも上手くいかないように感じられるが、時間が経つと戻る。

自分の気持ちを上手く制御出来る人は、自己の体感覚の認識に長けている事が多いのではないかと感じる。私のように温冷感だけで気分が乱高下するのは極端だが、程度の差はあれ、皆多少は体感覚に引きずられる形で気持ちを感じる。

即ちこれが、生理的情動である。自分の意志とは関係無く生まれては消えていくものだからだ。手に負えない情動は大抵生理的だが、一方で、自分の価値観や世界観によって自ら進んで情動を駆り立てる場合、心理的情動と定義できる。

厳密には、現実の情動に生理的情動と心理的情動のはっきりとした区別があるわけではないし、生理的でかつ心理的であるわけだが、どちらかに比重が偏っている事が多く、前者は体感覚を養い、後者はスキーマを修正する必要がある。

スキーマというのは自分の物事の捉え方の枠組みの事で、自分が知らず識らずの内に囚われている前提となる価値観「ねばならない」が基となっている。この「ねば」に違反する出来事が起こると、自発的に負の情動を強化してしまう。

生理的体感覚を注意深く観察していれば、その感覚を抱いた時にいつも同じ考えや気持ちに囚われている事に気付けるようになる。或いは逆に、特定の負のループに陥った時に、いつも体の同じ部分に感覚がある事に気付くようになる。

この点をしっかりと自己認識出来るようになると、体感覚に引きずられて情動に対して即座に反応してしまう自分の在り方が変わり、客観的に自分を見据えながらどのように行動すれば良いか、理性的に判断する事が出来るようになる。

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