おそらく子供は、ひとり遊びを通じて、それまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体の知れない、暗い大きな世界との、初めての出逢いを果たすのだろう。世界といってしまっては、あまりに漠然と、大づかみに過ぎるというなら、人間と自然に関わる諸々の事物事象との、なまみの身体まるごとの感受の仕方ということである。その時の、鮮烈な傷のような痛みを伴った印象は、生涯を通じて消えることはない。生涯に何百度サルビアの緋を愛でようとも、幼い日に見た、あの鮮紅には到底及ぶものではないのと同じように。
河野裕子『ひとり遊び』
ひとり遊びとは、自分の内部に没頭するという以上に、対象への没頭なのであろうと思う。川底の小蟹を小半日見ていてなお飽きない、というようなことがよくあった。時間を忘れ、周囲を忘れ、一枚の柿の葉をいじったり、雨あがりのなまあったかい水たまりを裸足でかきまわしたり、際限もなく砂絵を描いたりするのが子供は好きなのである。なぜかわからない。けれどそれらは何と深い、他に比べようもないよろこびだったことだろう。
マインドフルネスは、評価や判断をせずに、今、ここにある、身体の感覚に集中する技法だが、子供の頃は意識しなくとも自然にマインドフルな状態で生きている時間が多いような気がする。頭で考える情報処理ばかりでなく、その基礎となる経験の吸収、情報化を身体全体で全身全霊をかけて行っているわけだ。
特に訓練として行えば、自己認識が深まり、自己統制も深まり、目標もはっきりするだけでなく、人に寄り添いつつ、巧みにコミュニケーションを取れるようになるそうだ。まぁ、前提となる身体への注意という部分が難しいわけだが、実践にあたって特別な能力は求められないのも確かだ。
私自身は到達出来ていないが、身体感覚を基盤とした自分の軸がしっかり定まってくると、自分が一人だけで生きているわけではない事を実感するようになるのではないか。心霊的な特別な意味ではなくて、純粋に社会的な生き物として、世界と一つである事を感じざるを得ないのではないか。