「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
新約聖書(聖書協会共同訳)
誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、
自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
ラーイラーハイッラッラー(笑)。日本では、割と無欲な人や無頓着な人がトントン拍子に成功するような社会になってますよね。何か自分の意思で種蒔きをするというよりは、与えられた課題の模範解答を粛々とこなす従順さや、理由が分からなくてもとりあえず指示に従う素直さも、求められる気がします。
私が思うに、無欲・無頓着な人が上手くいくのは、日本が仏教国でだからではないですかね。そして、その事に自覚が無いのは、生まれた時から所属するお寺が決まっていて、普通は先祖供養の時くらいしか関わる機会が無いからではないでしょうか。
一度、正規の教育・労働の出世コースから脱落したら敗者復活は難しいですし、一度、何か悪いレッテルが貼られたら、社会復帰するのは難しいですね。この辺は、不信心な衆生に対する仏罰とイメージが重なるんです。
もう一点、キリスト教の罰と違うのは、最終的に自分の境遇に納得する方向で介入される点ですかね。キリスト教だと、歯ぎしりして泣き喚くような形に収束させに来ますから。
キリスト教は信仰を重んじるので、言いたい事が沢山ある人は、向いていると思います。沈黙は金という言葉が有りますが、キリスト教では文句や言い訳をするのが悪徳にはなるとは限らないんですね。言ったもん勝ちって印象です。
更に、学問的な筋道立てた御託を並べられるなら、猶太系も射程に入ってきます。