知らぬが仏〜みんなが笑顔になる魔法の言葉〜

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彼らの中にはアッラーと約定を交わした者がいた。「もし、彼がわれらに彼の御恵みを与え給うなら、きっとわれらは喜捨をなし、必ずや正しい者たち(の一人)となろう」。
ところが、彼が彼らに彼の御恵みを与え給うと、彼らは背いて、それを出し惜しみ、背を向けた。

クルアーン(9:75ー76)

暇なので改めて聖書の構造について考えていた。聖書の中でも最も重要な文献は四福音書だが、なぜヨハネだけは黙示録も著しているのだろうか。他にも、マルコによる福音書は独自の記述が無い事や十二使徒がルカ的な概念に留まる事、マタイによる福音書だけに山上の垂訓がある事も気になる。

ただ、ここではそんなに深入りせずにただ単にヨハネだけが福音書と黙示録を著して際立っており、書物の配置としてその間に言行録と手紙が挟まれるように置かれている事に着目してみた。福音書に載せられているような奇跡の数々は非科学的であって現在の常識に照らし合わせると有り得ない。

従って、宗教は終わってしまった旧時代の遺物であり全く実用的でないと考える人が大多数であり、少なくともそのように主張する人が大多数であり、物質の問題は科学、精神の問題は宗教、と二元論的に切り分けて分離する考え方も西洋では主流だろう。科学と宗教の矛盾を受容しているわけだ。

私も宗教に惹かれて様々な宗派に中途半端に手を出した人の一種で、教養としては全く何も興味が無い人よりは少し進んでいる程度のレベルではある。何か一つの宗派をとことん信じるというよりは色々な信仰の形態がある事を見学して楽しむような具合であるが、やはり何かあるのではと感じた。

そこで、宗教が科学を超えた権力と実力を持っているなら、なぜその力を顕現せずに科学の後塵を拝しているのかという問題に当然行き着くわけだが、結論として信仰を持った者のみが到達できる境地であり誰でも比較的簡単に行き着くが、それを言語化して証明する事が禁じられていると考えた。

一方で、聖書には奇跡の存在が当然の事として書かれておりキリストによって啓示と奇跡の時代が終わり与えられた教訓を守るだけの生き方を志すべきとする見方は、神学的ではあるが学問によって施された後付けの解釈で、聖書そのものは神の臨在や現代における奇跡の可能性を否定していない。

ある程度宗教に触れた身としては当然何かあるのでそういう方向で辻褄合わせするように考えてみた結果、キリスト教自ら積極的に奇跡を秘匿しているのだとしたら現代のキリスト教徒の上層部は救世主イエスではなく使徒ヨハネを主立った指針として考えているのではないかという仮説が立った。

マタイ・マルコ・ルカの三福音書では単独で奇跡を起こす事が前提となっているが、ヨハネに関しては福音書と黙示録を同時に行っているので単独で奇跡を覆い隠しながら行う必要性がある。そして、間にある言行録と手紙の部分に現代科学の建前を使っていると仮定できる。つまり4人に1人だ。

↓【おすだけで めざめるあなたの エデンパワー】(笑)
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