彼は心の中で言う。
詩編10.11ー12
「神は忘れているのだ。
顔を隠し、永遠に見るまい」と。
主よ、立ち上がってください。
神よ、御手を上げてください。
苦しむ人を忘れないでください。
顕教と密教の区別は主に仏教の概念で西洋宗教に同じような考え方があるのかどうかは知らないが、仏教の範疇では顕教が守るべき戒律の羅列で密教が超能力のような不思議な力を実現する為の方法論であると見做されていると考えている。
仏教の宗派の開祖は神通力が使えた事になっているし、少なくとも内面的にそういった境地に到達する事は、全ての仏教僧にとって悲願であり修行の最終目標なのではないか考えていて、ある意味では自己滅却を目指す顕教と矛盾している。
私の考えでは、顕教と密教の差は世俗的な技能か超能力的な技能かの区別を指すのではなく、単に手段の種類が明文律か不文律であるかの違いではないかと想定しており、前者が上意下達であるのに対し後者は全員が横並びの仕組みとなる。
超能力的である事は集合的な暗黙の了解の作法による以心伝心を示しているに過ぎず、極端に優れた集合的統率が超能力に映っていると解する事になる。超自然神通力とでも呼びうる資質を私自身は見た事が無いが、存在する可能性もある。
即ち、超自然神通力の可能性を追求するならば、密教ではなく顕教の完成度を高める事で誰が見ても明らかな様式を用いて追求を行うのが良いだろう。現存しない高度な技術を密教で再現出来ても、からくりの共有が難しく伝承不能となる。
一般に、顕教と密教の使い分けについては、基督教流に書けば「神の物は神に、皇帝の物は皇帝に」となる。生まれつきの高い資質は既存の密教体系の解き明かしを直ぐに終えてしまうが、本当に重要なのは仏教徒として生きた時間である。