ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、御心を知り、律法に教えられて何が大切かをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
新約聖書〔聖書協会共同訳〕
〈中略〉
しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
ユダヤ的な事をテーマに扱っているノリで進めてきたが、結局、ユダヤ人ってどんな人達なんだろうかと改めて感じたので、今現在の自分のユダヤ人もといユダヤ教徒についての宗教的な印象を纏める事にした。
キリスト教徒との比較で見ていく事にすると、最も重要な違いは当然、ユダヤ教徒はイエス・キリストをメシアであるとは信じていない点だが、メシア到来の可能性自体を完全否定しているわけではないようだ。
イエス・キリストを否定している為、ユダヤ教徒の聖典は所謂旧約聖書のみになり、タナハと呼ばれるらしい。これに学者による膨大な注釈が加えられて、ユダヤ教徒の戒律の実践を基礎とした生活が完成する。
イエス・キリストはアダムとエバが犯した善悪の知識の実を食べた事による原罪を、自ら十字架に掛けられる事で贖った事になっており、しかも戒律よりも信仰を優先する事で神の義を達成した事になっている。
新約聖書では、ユダヤ人の律法偏重の姿勢が度々批判されている。というより、律法自体を遵守していないかのような誤解を与える表現が多いが、要は形式的にルールを守っても心が伴っていないと言っている。
イエス・キリスト自身もユダヤ人であった為、ユダヤ人の中からメシアが誕生すると考えているユダヤ教徒が大半を占めるらしい。王家や祭司の血筋を受け継いでいなければならない血統主義的な考え方もある。
ユダヤ教徒からすると、イエス・キリストはメシアを志したが上手くいかずに殉教した、背教者の失敗事例であり、他山の石のような位置付けになる筈ではあるが、単純に嫌悪されているような印象も否めない。
私なんかはもう単純に、ユダヤ教徒はIQワールドでキリスト教徒はEQワールドだと簡単に定義してしまいたくなるが、どうだろうか。ただ、キリスト教徒は新旧の契約両方を重んじるのでIQも大事なのか。
一つずつ戒律の文法に従って、自身の生活を組み上げていくのが律法による神の義であり、全体として過去の生活を戒律で解釈して、後付けで合理化を行うのが信仰による神の義である、と言えるのではないか。
宗閥を越えたエキュメニズムという事になれば、どちらの宗派も神の義の実現を目的とし、律法を完全な物とする目標は守られなければならないだろう。方向性は真逆だが、どちらも実現の可能性はあるだろう。
このように考えれば、メシアニック・ジュダイズムの考え方も容易に理解出来るようになる。後付けの合理化は当然失敗するリスクもある。そういう前提で十字架に掛かった彼はメシア志望者の末路の典型例だ。
映画のマトリックスシリーズをイメージすると分かりやすい。主人公のネオを中心とするザイオンはアノマリーバグの掃き溜めとして繰り返し作り直され、殆どの人はプログラムの中で無自覚に眠り続けている。
更に一歩進んで、ムスリムの視点も加える事は可能だろうか。神の名はアッラーであるが、厳密には、イスラム教は預言者としてモーセとイエスを認めているし、従って聖書も聖典に準ずる物として認めている。
エルサレムでは仲良く聖地を共有して共存共栄の象徴となっているのだから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の習合は考えられない事ではない。話が壮大過ぎる面もあるが、日本ではそういう実験が出来る。
因みに、現時点では猶太人はごく限られた一部の選ばれし者という事になっているが、聖書の観点では人類は全員十二部族のいずれかなのだから、所謂、日猶同祖論は当たり前の話で、問題はどの部族かである。
失われていないのが第三部族のレビと第四部族のユダと第十二部族のベニヤミンで、主流だったのは第七部族のガドが祖先とする説だったが、ガドはレアの下女ジルパの長男で、あまり良いポジションではない。
祭司がレビで王家がユダで、3と4を基数として積の12がベニヤミンとして入っているので、和の7を組み入れれば綺麗に填まると考えたのだろうが、正直な所、なぜそんな候補を推すのか意味が分からない。
私なら第一部族のルベンを推す。やはり長子権が自然に手に入る長男が一番良いし、ヤコブの再臨先の最有力候補でもある。神秘主義的に考えるなら、学究的姿勢だけでなくより良いポストを目指す点も大事だ。