主よ、私と争う者と争い
詩編35.1ー3
私と戦う者と戦ってください。
盾と大盾を手にし
私を助けるために立ち上がってください。
槍と投げ槍を構えて
私に迫り来る者に立ち向かい
私の魂に言ってください
「あなたの救いは私だ」と。
生きていれば、宗教的選択肢を優先するか政治的選択肢を優先するか迫られる事がある。日本ではどちらの文化も希薄なので科学的選択しか無いと言われそうだが、エリートクラスになってくると皆が科学では満点を弾き出すので差がつかず別の分野も絡んだ戦いとなってくる。
端的に私の結論を書くと、「可能であれば常に」宗教を政治よりも優先すべきである。この私の考えには異論も多いだろう。宗教だけ、或いは頭や心だけでは何も動かない、政治的な最適解を優先してこそ現実が良くなるのだと考える人も多いだろう。確かにその考えも一理ある。
本当は常に宗教を政治より優先すべきだと書きたいところだが、現実的な事情を考慮して可能であれば常にという但し書きが付いた。この可能であればが具体的にどのような状況を指すかだが、政治的介入で自身の信仰生活が脅かされかねない状況以外という意味になるだろう。
現実に生き様を積み上げていく上では、政治だけを優先する生活をしていると自分が何を目指しているのか分からなくなる事がある。欲しい物は全て手に入り、夢や希望は全て実現し、ありとあらゆる物事が自分の思い通りになる。政治的手腕の極致ではそういった状態になる。
一言で言えば、堕落してしまう。これは特定の悪徳に染まってしまう事を指すのではなく、方向性を見失った結果として自分自身で自分の人生の選択を行う事を放棄してしまい、無関心になってしまう事を指す。こうした状況は本人にとっても周囲の人達にとっても不幸である。
宗教的選択を優先する場合は非常に生活の質が高くなる。あらゆる物事が常に思い通りにいかないが、地道に求道者の道を歩み続ける過程は非常に充実しているし楽しいので集中して継続出来る。自分で政治を行わなずとも周囲が持ち上げてくれるので成功にも引き寄せられる。
逆に、政治的選択を優先していれば信仰を裏切った時の代償は高く付く。信徒達は背信を行った者の事をいつまでも忘れず、いつか葬ってやろうと虎視眈々と機会を窺い続ける。そこで判断がブレてしまうと今度は政治手腕も疑われるようになり、結果的に全てを失ってしまう。
恐ろしい話だが、あながち間違ってもいないだろう。尚、ここで述べた宗教と政治の関係は芸能と経済の関係にも当てはまる。芸能を取るか経済を取るかの選択を迫られた時も「可能であれば常に」芸能を取った方が良い。理由は大体同じだが、もっと極端な結末が待っている。