クレクレ君と邪教

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「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、
自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

新約聖書〔聖書協会共同訳〕

ギブアンドテイクはビジネスの基本だが、プライベートでも一方的に搾取する人は敬遠される。特に、自分では何の努力もせずにひたすら欲しがるような人は、クレクレ君という有り難くない称号を与えられる。

大抵の業界ではクレクレ君は嫌がられるし、私が所属する精神世界の住人も嫌がる人が多いが、精神世界の一種の到達点というか境地である、宗教の観点から見た時には、果たしてクレクレ君は悪いのだろうか。

大半の宗教には救済の概念があって信じる者は救われると説いており、例えばアブラハム三大宗教である基督教と回々教は他力救済で分かりやすく、猶太教も自力救済ではあるが救われるとする点は同じである。

私の感覚では、特に基督教圏の社会では暗黙の了解として信仰の到達度に応じて福音を与えるという前提があるように思う。実践より信仰を重んじる立場からは判定基準は明確ではないが、機械的に判断される。

クレクレ君の姿勢は褒められたものではないし、信仰を前借りして過剰な施しを行うのも良くないが、助けを求めている点は同じであるので、宗教団体はお菓子を用意して門戸を開いておく必要があると言える。

信仰に応じた福音を受け取れないのであれば、その宗教団体は邪教であると考えざるを得ない。布教する立場にある者の習熟度次第では、何をしても福音になる事も有り得るが、調整が必要な場合もあるだろう。

そういう意味では、宗教を題材にして一から身を立てる事を目指すのは、望ましくない方針であると言える。既に、何らかの才能や能力或いは分け与えられる資源がある人が主宰すべきであるのは明らかである。

現代は万人が科学教育で競争する為、学問的エリートが高い専門性と技能や深い教養と自由を身に付ける確率が高くなっており、更に到達度に応じた地位が与えられる事も多いので、自立の為の基本姿勢となる。

↓【おすだけで めざめるあなたの エデンパワー】(笑)
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