グロス・ボディ
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明晰夢コーザル・ボディ
[実践]インテグラル・ライフp.175,176
目撃者瞑想
I AM…マントラ瞑想
統合的探求
ビッグ・マインド
センタリング・プレヤー
スピリットの三つの顔
上に挙げたのは、インテグラル理論による3つの身体の分類に沿って、それぞれの身体にどのような強化方法があるかについて例示したものである。
ウィルバーの説によると、脳の三層構造とそれぞれの身体が対応しているらしい。脳の三層構造とは、爬虫類脳(脳幹、小脳)、哺乳類脳(大脳辺縁系)、新哺乳類脳(大脳皮質)の順に積み重なっているとする説だ。
爬虫類脳がグロス・ボディ、哺乳類脳がサトル・ボディ、新哺乳類脳がコーザル・ボディ、の起源となっているらしい。まぁ、起源と言うなら、寧ろグロス意識、サトル意識、コーザル意識という意味ではあるとは思うが。
私は基本的に、理論をいじくり回すだけで実践には疎いので、上のメニューを見てもそれぞれの身体がどんなものかあまりイメージは湧かないんだが、分かる人には分かるんだろう。
上の説に従うならば、サトル・ボディから生まれる意識は情動的意識と言って良く、コーザル・ボディから生まれる意識は認知的意識と言って良いんだろうか。グロス・ボディは注意力そのものだろうか。
さて、私の個人的な見解では、サトル・ボディの訓練は根拠の乏しい存在論的前提が多い。ヒンズー教が例えに挙げられる事が多いのでここでもそれに倣うと、チャクラとかクンダリニーとかがよく取り上げられるが、解剖学的には殆ど何の根拠も無い。
また、イメージ能力を重視しすぎているきらいがあると感じる。教説が掲げる根拠不明な存在論的概念を上手くイメージ出来るようになれば、修行が進んだと解釈する感じだったと思うが、情動の制御が本来の目的ならあんまり意味無いだろう。
即ち、元々イメージ能力が優位で悲観的になりやすい人達にとっては効果的かもしれないが、そうでない人達にとっては、無理やり所謂、右脳的側面を開発するのは本来の趣旨から外れるような気がする。
起きている途中に夢に近い幻覚が見えるようになったり、共感覚のような特殊能力が目覚めても、それが超感覚ならまた違ってくるのかもしれないが、普通は不便で面倒なだけであって、百害あって一利無しだろう。
次にコーザル・ボディの訓練だが、正直私の理解を全く超えている。やはりイメージ能力を鍛える側面はあるが、それ以外の候補は殆ど何もしない事が訓練だと書いているようにしか見えなくて、意識的に何もしないのがどういう事なのか、よく分からない。それに、結果として認知の制御を目指す方法があるのかも疑問だ。
グロス・ボディは一番分かりやすく普通のスポーツで身に付けられそうだが、注意力の開発に関わっているのなら、意外と奥が深いんだろうか。つまり、サトル・ボディやコーザル・ボディで鍛わるのは感覚であって、注意そのものではないのかもしれない。
後、こういった修行の伝統では、イメージ能力を強化する為に向精神薬が使われる事が多い。私の感覚では、この種の幻覚は雑音を自分から拾いに行くようなものだと感じる。従って、内面の鍛錬に資する事は無いだろうと考えている。
例えば、誰かと話していて賑やかでちょっと声が遠くて聞こえづらいのでどうしようかと困った時に、話したい誰かではなくその辺の全く関係無い物音に集中して何故か会話が成立しているように勘違いするような感じだ。
纏めると、イメージ能力があって、教説の通りに具現化出来たとして、そのようになる存在論的必然性が無いので、グロス・ボディ(肉体)は別として、サトル・ボディやコーザル・ボディと言ったものは概念であって存在しないのではないか、という結論になる。