一行は会堂を出るとすぐ、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
マルコによる福音書1.29ー34〔聖書協会共同訳〕
シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は引き、彼女は一同に仕えた。
夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、御もとに連れて来た。
町中の人が戸口に集まった。
イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである。
日本は無宗教国家で、強いて言えば神道と仏教が形だけ普及しているけれど、基本的には科学しか信じていない人が多くて、何事にもたゆまぬ努力が必要だと考えている。
奇跡なんか起こらないと思っているし、望むだけで何かが変わるとも思っていない。実業家には何らかの信念を持っている人が多いけれど、宗教的な意味では卜占止まり。
まぁ確かに、現実問題として科学と矛盾するような大道芸地味た現象を起こすのはほぼ無理だし、御言葉を唱えるだけで病人が突然快癒に向かったりする程の効果は無い。
厳密には、海が割れる御言葉を唱えれば一瞬海は割れるし、病人を癒やす御言葉を唱えれば一瞬病人は快癒する。科学的な説明は難しいけれどすぐに元に戻されるだけだ。
前の例で言えば、海よ割れろと思っている人よりも割れないでくれと思っている人の力の質と量の方が圧倒的に大きいので、何も起こらないように映るだけではあるけど。
また、宗教的な方法論はどちらかというと予防的な側面が強い。何かが起こってしまった後に何とかしようとするのではなく起こってしまう前に問題を無くす事を目指す。
呪力というか霊的な能力が優れている人は自分の意思を通しやすいけれど、そういう人に限ってあまり力の無いセクトを信じていたり、自分で教義を一から作ったりする。
様々な聖典がある中でも、やはり基督教の聖書は支持者が多いので力が強い。自然科学に触れるような内容ではなくて自分の心を整えるくらいであれば、反発力も少ない。
御言葉を直接唱えなくても唱えたい御言葉を思い浮かべながら文章を書くと意匠が転写されるので、自分の教義を守りつつも強い呪力を乗せたいなら試してみればどうか。