1.スピリットという言葉は、しばしば、「神」(God)、「意識」(conciousness)、「真如」(Suchness)、「あるということ」(Is-ness)、「自己」(the Self)、「常に存在するもの」(ever-present)と互換的に用いられます。このような使い方をする場合、スピリットは、あらゆる存在の究極のアンデンティティ、根源、あるいは、存在の基盤を意味します。
2.スピリットという言葉は、生命の意識的なエネルギーという意味で用いられることがあります。この場合、「スピリット」は、「生命力」(life-force)、「プラーナ」(prana)、「気」(qi)、「聖霊」(Holy Spirit)、「愛の光」(love-light)、「神の光」(God-light)、「聖なるエネルギー」(divine energy)と互換的に用いられます。この文脈においては、スピリットは、あらゆる存在・現象・力・出来事を動かし顕現させる存在の意識の流れを指します。
3.スピリチュアリティは、すべてに浸透する慈愛の存在、およびすべての慈愛と愛と霊感の源泉を指して用いられることがあります。簡単にいえば、親切・寛大・平安・感受性・慈悲・歓びなどの態度や資質を指すのです。
4.スピリチュアリティは、「霊的発達」「霊的成長」「霊的成熟」等の表現に見られるように、一つの発達領域という意味で使われます。
5.スピリチュアリティは、非常に高次の意識状態を指すことがあります。通常、非常に微細なサトル状態・コーザル状態・非二元の意識状態がそれに相当します。
6.スピリチュアリティは、あらゆる発達領域における最高度の発達段階の意味で用いられることがあります。たとえば、マイケル・ジョーダンが最高の状態でバスケットボールをしていたとき、彼は、まさに超人的といえるほどに見事なプレイを体現していたのです。これを「スピリチュアル」と呼ぶ人もいます。芸術的な表現で最高の段階に到達した芸術家、きわめて高度の音楽的能力を開発したピアニスト、対人スキルにおいて達人のレベルに達し、適切なときに適切な言葉を発することのできるセラピスト……こうした人々はすべてスピリチュアルな意味での才能を賦与されているということができます。
[実践]インテグラル・ライフp.260,261
スピリチュアリティ(スピリット)と一口に言っても、これだけ多くの用法がある事を読者の皆さんは知っていただろうか。また、霊的ではあるが宗教的ではないと自認する人達は、その二つの立場の違いを明確に言葉で説明出来るだろうか。
分かりやすく単純化すると、どちらも人間の内面に焦点を当てる事は同じだが、霊的な探求は主観的な領域に目を向けるのに対し、宗教的な探求は間主観的な領域に目を向ける点が異なると、言えるのではないか。
試みに前回の(ホロン?)認識論に準えて解釈するならば、霊的探求が現象学などのゾーン1の方法論を用いるのに対し、宗教的探求は解釈学などのゾーン3の方法論を用いる事が基本形になっている。
霊性を追及する人達は、宗教性を重んじる人達から見ると神秘主義者や呪術師と同じように映る事が多く、従って異端であると見做される傾向がある。実際に、現実に全く通用しない独自の世界観を構築している者が多い事も否定出来ない。
また、宗教性を追及する人達は、その共同体に独自の戒律などの規範を強要した結果、暴力沙汰になる事が多いので、野蛮だと忌避される傾向がある。実際に、宗教に所属するとしがらみだらけになり身動きが取れなくなる者が多い事も否定出来ない。
SBNR自体は最近の時代のうねりから生まれた潮流ではあるが、それが独立した研究分野として出現した点では新しいと言える。逆に主流な宗教団体の在り方をRBNS(Religious But Not Spiritual)と呼ぶ事も出来るかもしれない。
私自身は、模範的な生き方を心掛けるならば、まずは霊的である必要があり、霊性を極めた上で、宗教的になる必要があり、宗教性を極める必要がある、と考えている。
この道は主に過去の宗教の開祖が辿った物で難易度は高いが、欲しい商品が既製品の中に無いのであれば自分で作るしか無いという発想で、現実の需要は相当な物がある。
霊的と言われる方法論は玉石混淆で、初めて足を踏み入れる人達にとっては、何が何やら分からないので、整理と選別が急務であるし、宗教的と言われる方法論は戒律などが古臭くてまともな人はついていけないので、現代化が急務だろう。