トニーは、仕事というコンテクストでの幸せのプロセスを鋭く捉えている。彼は、快楽と情熱と崇高な目標という三種類の幸せについて語る。
サーチ!p.209
①快楽ーこの種類の幸せは、次の高揚感をたえず追いかけるというもので、ロックスターのような幸せだ。ロックスターのような暮らしをしていなければ、維持するのがとても難しいからだ。
②情熱ー「フロー」とも呼ばれる。物事に没頭し、最高の仕事を見せ、時間が瞬く間に過ぎていく。
③崇高な目標ー自分より大きくて、自分にとって意味のあることの一部になる。
サーチ!によると、自分の好きな事を仕事にするのが一番良いらしい。
心理学の心得が有る人の中でも、自分のしたい仕事が出来るかどうかは意見が分かれているところではある。
幸福の種類は三種類に分かれるらしく、快楽、情熱、崇高な目標の順に、持続性が低くなるようだ。
私は体質上、同じ事を反復し続けても快楽が得られるような体質なのでよく分からないが、普通は真新しい刺激的な出来事が連続する必要が有るようだ。
そういう意味では、快楽を幸福の源泉として追求するのはあまり賢明な方法とは言えないようで、情熱を持てる仕事に打ち込む事が努力を継続する為の鍵となる。
好きな事より得意な事を仕事にした方が良いと述べているようにも感じるが、どちらをどちらに寄せるかで意見が分かれているわけだ。
さて、サーチ!では更に崇高な目標がより確かで最も拠り所にすべき指針であると述べている。
確かに、私の経験でも、情熱を持てるような仕事があっても、中期的なスパンで飽きてしまうように感じる。快楽になると、短期的なスパンで飽きる。
一方で、世界平和だとか、そういった大義があれば、長期的なスパンで見ても同じ事に取り組み続ける事が出来るように感じる。
従って、まず崇高な目標を定めて、その目標に沿う範囲で情熱を持てる仕事を行うわけだが、その過程そのものが快楽となっていれば言う事は無いわけだ。
ところで、この文脈では専ら心理的な幸福が話題になっているみたいだが、生理的なレベルから体質改善を目指すのが元々の趣旨ではある。
生理的である事と心理的である事の違いは、簡単に言えば、刺激と反応の間にどの程度の選択の余地が有るかで説明出来る。
選択の余地が全く無い場合は生理的で、選択の余地が完全に有る場合は心理的であると言える。尤も、大抵は中間になるが。
最初から崇高な目標を持てるようなインセンティブは生じないだろうから、若い頃は失敗を恐れずに快楽→情熱→崇高な目標の路線も考えられる気はする。
より包括的に考えれば、心理的快楽→心理的情熱→心理的崇高な目標→生理的崇高な目標→生理的情熱→生理的快楽、となるのではないか。
個人的には、情緒が欠落しているのか、心理的な幸・不幸がどういうものなのかよく分からなかったので、殆どの事が他人任せだった。
結果より実感させられたのは、何気ない選択であっても、自分の経験した事が自分の人生を形作って、その結果として生理的な反応として定着してしまうという事だった。
ともかく、要は継続さえ出来れば才能が有ろうと無かろうと仕事が出来ようと出来まいと、形にはなって成功するという事になる。