心眼は肉眼の代用になるのか〜視覚視覚的世界と聴覚視覚的世界〜

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一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

マタイによる福音書20.29ー34

人間、目が見えなくなると一大事で、人生の楽しみの殆どを失うとまで言えるくらい非道い話だし、実際、感覚入力の9割は視覚と言われているだけでなく、自分の力だけでは殆ど何も出来なくなる。

視力を失ってしまった人の中には、先天的か後天的かにもよるが、代償的な空間認識能力を発達させる人も居るようで、音を超音波のように駆使する例が有名だが、想像力が発達しそうな印象がある。

目の入力を基礎とする視覚的世界と耳の入力を基礎とする聴覚的世界に分ける考えまでは普及しているが、私は、想像的世界が視覚的で感覚的世界全体が聴覚的で、目と耳は象徴に過ぎないと考える。

聴覚的情報処理能力は集合的であり没個性的であり共感的であり、視覚的情報処理能力は個人的であり個性的であり論理的であると言え、超心理能力は後者の延長線上にあると考えるのが自然である。

感覚的入力の意味では、マズローの欲求段階説のような基準を満たす快が多く得られる現実がある方が幸福ではあるが、やはりどのように捉えるかの想像的世界の役割も大きいというか決定的である。

同じ感覚入力があってもそこから得られる実質的な快の量が視覚的情報処理能力の差で歴然と現れる為で、感覚的世界での成功のみを追求すると慢性的な欲求不満に陥ったまま漠然と人生を走破する。

視覚的情報処理能力の教育も非常に重要で、寧ろそれだけあれば普通の意味の現実的な教育は何も達成基準を求めなくて良いのではないかと考えるくらいで、宗教的でない方法論の整備は急務である。

記憶力を情報処理能力と独立に考える場合もあって、海馬などの記憶を司る脳の部位があるので自然な捉え方ではあるが、感覚的世界の区別は象徴に過ぎないとの立場では細分類の一つの扱いになる。

情動の原因は体感覚が基礎になっていると考えられているが、余程強い感覚刺激がかかっているわけでない限り、視覚や聴覚から入ってくる情報の方が優先されるだろうから、今回は考慮していない。

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