三人称の黙想においては、私たちは「それ」を見ることになります。私たちは、視覚と知性と感覚を存在の究極的な神秘に向けて開き、そこにある詳細や色合いを把握するのです。黙想において、私たちはスピリットと宇宙の充実性に気づきます。グロス、サトル、コーザルという層を内包するものとして、その豊かな奇跡的な重層性を認識するのです。こうした認識に触発され、人々はしばしば他者とスピリットに積極的に奉仕します。
代表的な例…芸術、自然神秘主義、哲学的思索、神秘学的黙想、奉仕、貢献。二人称の祈りと霊的交流においては、私たちは、自己を開示して、存在の究極的な神秘と親密に触れ合う事になります。そのとき、「それ」として経験されていたものは、「汝」になるのです。比喩的に表現すれば、私たちは神と対峙して、その究極的な意識に対して自己のすべてを開示するのです。こうした過程を体験する中で、感受性に溢れた私たちのハートと魂は無感覚でいることはできません。それは何らかのかたちで触れられることになるのです。私たちは、恩寵が、存在の神秘の祝福が自己にもたらされるとき、それを受けとめることができるのです。
代表的な例…祈り、神の存在の受容、歌唱、礼拝、儀式、奉仕、パクティ・ヨーガの道。一人称の瞑想においては、私たちは、スピリットの「私」として自己を知ることになります。私たちは、記憶・想念・感覚・欲望等に束縛された限定的なアイデンティティを手放し、今、この瞬間の究極的な主体性「私がここにいること」として目醒めることになります。私たちは、今という瞬間のすべてに、そして、今という瞬間の全てとして目醒めるのです。存在の神秘そのものとしての自己に目醒めるのです。そして、さらには、あらゆる概念を超越した、あらゆる物とあらゆる者から切り離されることのない「それ」として目醒めるのです。
[実践]インテグラル・ライフp.275,276
代表的な例…ビッグマインド、ヴィパッサナー、只管打坐、ゾクチェン、ニルヴィカルパ・サマーディ、サハジ・サマーディ、形象を超越した領域を対象とするすべての瞑想。
瞑想の種類を対象によって分類すると大体上のような感じになるらしい。この内、日本のスピリチュアルの人達は常に「高次の存在」と「繋がっている」らしいので二人称のスピリチュアルを重視しているのかもしれない。
心霊的な取り組みは変性意識状態が開花していないと難しいというか、やってみても上手く出来ている実感が湧かない人が殆どなんじゃないかと考えている。現実的には、繊細な感覚を上手く拾えるかどうかの問題だろう。
インテグラル理論ではこの部分はスピリット・モジュールと呼ばれており、統合的に人間生活全体を設計する事が念頭にあって、他に理論を整理するマインド・モジュールや身体性を鍛えるボディ・モジュールなどがある。
一般的には、心霊の世界は才能や適性が全てなので向いていないと見做されればバッサリと切り捨てられるし、上手く調和出来た人でも何が何だか分からない状態でフワフワしているような印象があるんだが大丈夫なのか。
あくまでも私の個人的意見ではあるが、現実世界に対するアプローチが乏しい方法論は初心者は避けた方が良いのではないか。別に私自身が熟練者でもなんでも無いので余計なお世話かもしれないが、行動する事が大事だ。