主はサタンに言われた。
ヨブ記2.2
「あなたはどこから来たのか。
サタンは主に答えた。
「地を巡り、歩き回っていました。」
現代は科学全盛期の時代なので(自然)科学技術が発展すれば無条件に世界が良くなると信じている人は少なくない。以前は人文科学や社会科学などの内面を扱う分野が科学を補助する役割を果たしていたが、主張の根拠に数学的根拠が必要とされるようになって自然科学に変質しつつある。
私自身は自然科学の発展によって良い結果に繋がるにせよ悪い結果に繋がるにせよ少なくとも起こる物事の規模は大きくなると想定していた。まだまだ研究の余地は残っているものの人類が望んでいるような現実世界の現実的な改変に必要な技術水準は既に達成されているように映っている。
だが実際に現実の出来事を観察すると正反対である事が分かった。破滅的な核兵器や致命的な生物兵器のような最終兵器が殆どどんな国にでも開発可能で何時でも使用可能な国もあるのに誰もカードを切らない。人の不幸を見たいわけではないが起こる出来事の規模の小ささには驚かされた。
徐々に自由民主主義的な発想が衰退していきつつあるようには感じるがそれも悪い出来事であるというよりは各々の国が自国の文化を独自に発展させる方向に舵を切っただけのようにも見えて発達理論に準えるならば合理主義段階から相対主義段階への移行といったところなのかもしれない。
文科系の科学も数学によって基礎付けられる事でどんな世界になるのかは想像もつかない。それが果たしてユートピアだと言えるような代物なのかも分からないしそもそも完全に数学化された学問を心の拠り所として生きる事が人間にとって有り得る話なのかどうかも疑問でよく分からない。
個人的な着眼点としてはやはり宗教が世界秩序の維持に何らかの役割を果たしているのではないかと睨んでいるが科学的には分断や軋轢やその結果としての戦争や犯罪などの源泉であると考えられているし歴史的にも宗教はあまり歓迎すべきでない概念である事を示しているのかもしれない。
私の浅い経験ではまだ何とも判断のしようがないものの西洋宗教が信仰されている海外の人達にとって天使や悪魔といった存在が何らかの意味を持っているかもしれないような印象は持った。実用的に気になるのは破壊や創造だけでなく修復や再生の物語がきちんと機能しているのかだった。
極端な場合だと旧約ではエリヤが新約ではイエスが死んだ人を蘇生している。物語の内容を社会的な生死の比喩として捉える事も可能だが原理主義的な戒律の実践を行っている人達は破壊だけでなく再生の物語も遵守出来ているのかが気になる所というか不思議さを感じるところではあった。
内面の幸福の達成という意味では科学技術の水準が向上しても良い結果に繋がるわけではないのかもしれず結果的には外面の成功の達成も阻害するのかもしれない。宗教が物事を良い方向に繋げる力があるのかどうか分からないが私はまだ希望を持っていて研究を続けているところではある。