SBNR再考〜精神世界の革命児の夢の果てとは〜

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私を愛する人を私も愛し
私を探し求める人を私も見いだす。
私のもとには富と誉れがあり
豊かな財産と正義もある。
私の与える実は金にも純金にもまさり
私のもたらす収穫は銀よりも好ましい。

箴言8.17ー19

前にも何度か書いた事があるが、SBNR(SpiritualButNotReligious)な人達が世の中には一定数存在しており、具体的には精神世界の住人ではあるがその最先鋒である宗教に関しては理不尽で有害だとして退ける立場がある。

この事を具体的に理解するには、単純に「宗教」と「哲学」の違いだと考えて良いんじゃないかと感じた。私の短絡的な理解では、前者と後者の差は権力を持っているかどうかだ。後はまぁ心理学もあるかもしれないが、これは学問的な裏付けがよくある。

実際に哲学理論に触れてみれば分かると思うが、確かに豊かな内面世界が広がっていて様々な発見や洞察が得られる一方で、やはり何の役にも立たない。具体的には、実践的側面が存在しないか存在していても実現不能なので修行を成功させるのは難しい。

扱っている哲学理論が科学的立場の定説を活用したものであればまだ実現の目があるが、現代科学の立場とはかけ離れた独自の理論を実技として展開している場合、何をどう頑張っても何一つ達成できないのが、宗教的でない精神世界の人達の住む世界だ。

一方で、宗教的な精神世界になると話が違ってくる。どの宗教も決まった修行方法が確立している事はあまりないというか、大体の枠組みが提供されているだけな上に一般的にはそういった「霊的修行」は奨励されてないわけだが、何も無いわけではない。

どちらかというと儀礼的な内容で毎日の日課としてこなすようなものが殆どで、方法論として内面の陶冶をいかに効率的に行うかに焦点を当てた研究などは行われないわけだが、これは宗教が「権力そのもの」であって用いる方法論は関係無いからである。

御利益や願望実現を期待する上では宗教的でない精神世界は無意味なので、きちんと正統な宗派から学びを得る姿勢を持つ必要があるわけだが、だからといってSBNRが無意味かといえばそんな事はないのであって、言ってみれば注釈の領域に相当する。

一般的に聖典とその解釈にまつわる文献は別々に用意されている。通常信徒はそれらをセットで学ぶわけだが、宗教の力の源泉は究極的には聖典のみを拠り所としている為、注釈文献は自由に選べる。宗教の異文化交流の旗手として最適な教養となりうる。

↓【おすだけで めざめるあなたの エデンパワー】(笑)
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