あなたは袋に大小二つの量り石を入れておいてはならない。あなたは家に大小二つの升を置いてはならない。全く正確な量り石と、全く正確な升を持たなければならない。そうすれば、あなたの神、主があなたに与える土地で、あなたは長く生きることができる。このようなことを行って、不正を働いた者をすべて、あなたの神、主は忌み嫌われる。
申命記25.13ー16
最終的に聖書に辿り着くパターンとしては主に二種類あって、学問的関心から身に着けておくべき教養として自分から学びに行く場合と、基督教会に「力」(権力とか財力とか呪力とか)を持っていると判断されて、向こうから与えられる場合である。
前者の場合の方が珍しいかもしれないが、扱いとしては「一般」になり、後者の場合の方が「エリート」扱いになる。私の場合はどちらかよく分からないのは、特に何の「力」も無いが聖書に辿り着く程の幅広い学問的関心も持っていないからである。
こんな事を書いたら精神世界の人には顰蹙を買うかもしれないが、現実問題として聖典にも「ランク」があると思う。具体的に格付けをしようとは思わないが、聖書が一番であるのは恐らく間違いないだろう。というか、聖典すら無い集団も多くある。
呪術の文言やコミュニケーションの方便としての側面を除く科学的な聖書の主な効用は、御言葉を媒体として過去の(主に劇的な)経験を咀嚼する事で生きる活力に変えられる点ではあるが、超科学的には経験を技術に転化する効能があるとも言える。