では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
新約聖書〔聖書協会共同訳〕
知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、
罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
旧約聖書では戒律の実践に重きが置かれていて、それはもう些細な間違いで石で打ち殺す事こそが正義で、都合が悪くなったら適当に罪業をでっち上げて口減らしをするようなものだった。
残虐な仕打ちこそが神との契約の証であり、秩序を維持する為の手段であり、言ってみれば、神は無自覚な社会意識のようなものだったんだろう。そして、その物語は、原罪に端を発する。
新約聖書では救世主であるキリストが、白を黒に、黒を白に、ひっくり返した上で死んでくれる。正しさも善さも幻想であった事を知り、信仰の強さが全てであると考えざるを得なくなる。
罪人と呼ばれるのは敗者の立場に甘んじているがゆえであり、義人と呼ばれるのは勝者の立場を勝ち取ったがゆえである。私達は目を覚まさなければならない。聖書が語る真実に刮目せよ。